-それから数ヶ月。
もうすぐシーズンが始まる頃となった頃になると、グーデリアンの蛮行はますます回数が増えていた。
さすがにイベントやレース前に手を出してくることはなかったが、突如深夜に押しかけてきては
無尽蔵な性欲に朝まで翻弄されることも多く、ハイネルの精神的・肉体的な疲労は極限に達していた。
眼前を走り抜ける金色の車体が火花を散らす。ドイツのテストコースで、ハイネルはマシンの最終調整にはいっていた。
「安定してきましたね。」
「悪くはないな。グーデリアンの分に関しては。」
投入二年目の車体もこなれてきて、昨シーズンでは対応しきれなかったプログラミングのホールに関しても今期は問題なく処理できている。
「・・しかし、車体に関しては早急に改善型を検討したほうがいいかもしれませんね。他社の動きが思ったよりも激しくなってきたようです。」
「わかっている。策はある。」
あることはあるのだが、最近の荒れた生活のせいで集中力が持続できていない。先日などは空港でうっかり捕まったインタビューアーの質問に対し、聞き返すことすらあった。
-・・こうなるのは覚悟の上だろう、フランツ・ハイネル?。
ため息混じりにデータを検討するハイネルの携帯電話が鳴った。
「・・・・ハイネルだ・・・今、テスト中なんだが・・何?」
ハイネルは電話を片手にコース上の金色の車体をちらりと見ると、うなずいた。
「・・わかった・・行く。」
携帯をぱたんと折りたたむと、ハイネルはスタッフに声をかけ、オフィスへ立ち去った。
「ハイネル、どうしたの?途中からいなくなっただろ?」
「よくわかりますね。」
マシンから降りながら、ヘルメットを脱ぐグーデリアンにスタッフが飲み物とタオルを渡す。
ドライバーにとって必要な資質の一つが、動体視力だ。実際にマシンを動かす反射神経・周回に耐えうる体力などはもちろんだが、戦況を的確に判断するためには動体視力はかかせない。恐ろしいスピードで視野が狭まる中、最近ではシステムからの補助があるとはいえ、どれだけの情報を瞬時に得られるかという点においてはグーデリアンは恐ろしく野生的ともいえる勘をもっていた。
「急用?」
「急な来客のようですよ。」
「へぇ。あいつが中断?珍しいね。」
グーデリアンの中で、何かがひっかかった。
「お待たせしました。」
「急で悪いな。」
ハイネルは自分のオフィスで来客と対面した。
入るなり、浅黒いほどに焼けた肌と白金髪の若い男ががっちりとハイネルを抱きしめる。
「少しやせたか?飯食ってるか?こないだのインタビューでなんだか疲れているように見えて、心配になってな。」
「そうですか?・・気をつけます。」
笑いながら、向かいのソファに腰を下ろす。
「お会いできてうれしいです、トニオ。」
ハイネルの顔にほっとした笑みが浮かんだ。
「背は伸びたが、相変わらず細っこいなお前は。」
「からかわないでください。」
「中年太りとか言われるよりマシだろ?」
話が盛り上がり始めた頃、こんこんとドアをノックする音が聞こえた。
「失礼。コーヒーが届いたようです。」
ハイネルが立ち上がり、ドアへ向かう。ドアを開けると、そこにはコーヒーの盆を持ったグーデリアンが立っていた。
「・・お前・・」
目を見開いたハイネルを押しのけるように、レーシングスーツ姿のグーデリアンが室内に入る。
「ちょうどそこでエリーゼちゃんに会ってね。大事なスポンサー様にご挨拶をと思ってさぁ。」
陽気な口調で盆をテーブルに置き、トニオの前に立つ。
「こんにちは、えーと、あんたがトニオさん?」
「やぁ。会ってみたかったよ、ジャッキー・グーデリアン。」
立ち上がったトニオが片手を差し出すのを、グーデリアンは唇に薄ら笑いを浮かべたまま、強く払いのけた。
「なぁ、あんた、ハイネルとどういう関係なんだ?こいつ、うわ言でよくあんたの名前呼んでてね。強情で、俺がベッドでどれだけ聞いても絶対教えてくれないわけ。」
「やめないか、グーデリアン!」
割って入ろうとしたハイネルの静止を軽く手でいなし、トニオは肩をすくめた。
「さぁなぁ。頭の黄色いヒヨコ君にはまだ刺激的なんじゃないかなぁ。」
トニオが挑発の台詞を言い終わる前に、グーデリアンの右腕が空を切った。しかしトニオは紙一重でそれをさらりと交わし、瞬く間に腕をねじり上げながらグーデリアンの巨体を床に縫い付けた。
「いい体格はしてるんだが、ツメは荒いな。こっちは代々荒っぽい船乗り相手の商売なんでね。」
「トニオ、乱暴な真似は・・」
「わかっている。大事なドライバーなんだろ?」
怪我をさせるつもりはないというように、トニオはすぐにグーデリアンの上から去った。身を起こしたグーデリアンを見下ろし、トニオが言う。
「俺が誰で、フランツがどう説明しようと気にはしねぇが・・・フランツに何かしでかしてみろ、シチリアの海に叩っこんでやるからな!」
その顔には先ほどまでの笑い皺の目立つ美丈夫ぶりはなく、裏家業にも精通した人間の暗さと凄みが滲み出ていた。力量をまざまざと見せ付けられたグーデリアンは立ち上がることすら忘れ、床に座りこんだまま、ただ眺めるしかなかった。
「さてと。騒がせて悪かったな、フランツ。帰るわ。」
くるりとハイネルのほうを向いたトニオは、先ほどの形相からは打って変わってもとの明るい笑みに戻っていた。
「あの・・色々と失礼を・・。」
頭を下げるハイネルの髪をぽんぽんとトニオが叩く。
「最初っから、お前の顔見たかっただけだからな。元気ならそれでいい。」
「はい。」
「それとな、・・・・・」
頷くハイネルの耳に、何やら母国語で囁いた。
目を丸くするハイネルににやっと笑いかけ、トニオはドアから出て行った。
「・・で、あいつ結局何もん?」
「・・・・・・・・・・・・・・」
やっと床から立ち上がり、ソファに座ったグーデリアンは憮然として腕を組んだ。
「なぁ・・俺問答無用でここまでボコボコにされたんだぜ。そろそろ教えてくれていいんじゃね?」
「最初に吹っかけたのはお前だろう。」
向かいに腰をかけ、ハイネルはため息をついた。騒ぎですっかり忘れ去られていたコーヒーを軽くかき混ぜると一口含み、一言ずつ語りはじめた。
「彼は・・その・・高等学校の先輩だった。」
-12歳になったハイネルは、良家の子息が集う全寮制の学校に入学した。
そこでは各家で何不自由なく育てられた子息が共同生活をすることで協調性や統率力を身につけることをモットーとしていた。また、卒業生同士が大きなネットワークをもち、そこに入って優秀な成績を収めることはその後の人生に大きな影響を及ぼしていた。
そこではフランツ・ハイネルは、裕福ではあったが大富豪や王族、財閥の子息といった中ではたかが自動車会社の、それも跡継ぎとして確定していない三男の息子というどちらかといえば重要視されないタイプの生徒だった。
別に彼自身は父譲りの質素でシンプルな生活に慣れていたし、静かで古めかしい図書館で好きなだけ本が読めればそれだけで幸せだと感じていたが、中にはそこにつけこんで明らかに見下す生徒や、妙なアプローチをかけてくるものもいた。
その学校では一人の新入生に対し、指導係の生徒が一人つく慣習がある。そこでハイネルの指導係に選ばれたのがトニオだった。
トニオの実家はイタリアで古くから海運業を営む会社だった。地中海の風をいっぱいに受けて育った彼は自由奔放で豪放磊落という言葉こそがぴったりで、勉強嫌いだが妙に頭が切れて時に教師ですら持て余す存在だった。そんなトニオに対し、いわゆる優等生でほうっておいても何の問題のないハイネルをあてたのには学校側の思惑があったのかもしれない。
しかし、家庭環境など似たところの多い異端児同士は妙に気が合った。理系教科の得意なハイネルに対し、地理や語学、意外にも文学や芸術にまで精通するトニオはハイネルを休日ごとに美術館や博物館に連れ出し、作者の生い立ちから時代背景から詳しくわかりやすく説明しては興味をもたせた。トニオからすれば、感情を不器用にしか表せないハイネルが可愛かったのかもしれない。また、ハイネルから見れば、トニオの傍はぶしつけな視線やわずらわしい雑音からある程度遠ざかることができる、安息の地だった。
そんな居心地の良さが、いつの間にか友情以上の信頼関係を二人に抱かせてしまっていた。
肉体関係があったわけではないが、自然と体を寄せ合い、笑いあいながら一冊の本を読む。そっと物陰で唇を重ねることすらあった。
敵が多かったのも不幸だったのかもしれない。そのうちに、どこからともなく二人の関係が周囲に尾鰭をつけて知れ渡り、大きな問題となってしまった。
不名誉な噂が学校中に広がり、さすがに学校側も見過ごすわけにもいかない事態となった時、ハイネルは背筋が凍る思いだった。名門校での不祥事やドロップアウトはネットワークを通じて今後の将来、ひいては親の事業にまで大きな傷をもたらす。ハイネルは迂闊だった自分を悔い、食事も喉を通らず眠れない日々が続き、遂に倒れてしまった。
その間にトニオは自分がハイネルに無理に関係を迫ったと言い張り、ハイネルに反論や弁明の機会を与える暇もなく自主退学をしてしまったのだ。
もちろんそれを知ったハイネルは激しく学校に抗議したが、事情を察した一部の教師達により押しとどめられ、表向きにはトニオの名誉は回復されることはなかった。
「・・私は、結局、彼の将来を台無しにしたんだ。」
すっかり冷めたコーヒーを片手にハイネルは薄く微笑んだ。
「好きだったのか。」
「よくわからない・・・彼といるのは楽しかっ・・た・・いや、違うな。ひどい言い方で言えば、楽、だったのかもしれない。彼は危なっかしくて放っておけないからと言って、何かと世話を焼いてくれたから。」
「ひどいなお前。」
「あぁ。せめて心から彼が好きだったと言えれば、彼は少しは救われたはずなんだ。なのに私は多分、愛するという行為がよくわからない。」
苦い言葉を飲み込むハイネルを、グーデリアンはじっと見つめる。
「でも、あいつは今でもお前のこと、好きなんだろ?」
「好きもなにも・・彼も私もゲイじゃない。彼はその後実家を継ぎ、既に結婚して子供もいる。ここ数年会ったこともなかったが、先日の囲み取材で私の顔色が悪かったのを見て心配して来たというだけの話だ。」
グーデリアンの心に波風がたった。
性的な関係はともかく、未だにトニオはハイネルがかわいくて仕方ないのがよくわかる。
今だって、たった数分のインタビューから、こいつが苦しんでいるのを妙な本能で嗅ぎつけてきやがる。悔しいが、トニオはそれだけグーデリアンよりもハイネルの心に近い場所にいるということなのだろうか。
「・・じゃあさ、俺はあんたにとって、何?俺の相手をしていたのも、脅されて、流されてってだけなのか?」
「・・・・・・・・・・・・」
ハイネルは黒い液体の表面に浮かぶ波紋を眺め続けた。
確かに、力で拒むことも出来た。助けを求めることも出来た。
適当な理由をつけて社会から抹殺してやることすら自分には容易にできた。
体を差し出すことでドライバーが確保できるならと、自分の中では割り切れているつもりだった。
だが、ハイネルの中で膨らんできた違和感が、それを拒否していた。
「・・私に関わると不幸になる。わたし、は・・お前に、トニオのように人生に傷を残して欲しくない。」
だから、心だけは決して渡さない。
「それってつまり、俺の人生心配する程度には好きってことでOK?」
「・・・」
ハイネルはトニオが最後ににやりと笑いつつ、母国語で残した言葉を思い出していた。
『こいつ、本気だぜ?』
同性に肩を抱かれたことは何度となくある。本気の告白すら、指折って数える程度にはあった。
しかしトニオ以外のどの男も、いや、女も、ハイネルの見た目と頭脳に魅かれたばかりでその中身に触れてくることはなかった。
なのに目の前の男は、ずけずけと自分の奥に踏み込んでこようとする。
「・・グーデリアン。」
「ん?」
「お前は、私が好きなのか?」
突然の質問にグーデリアンは頬杖をついていた肘を落とした。
「お前なぁ!・・・・・・・」
大体、そもそも俺にそこまでさせたのはお前の言動とか色々!と、叫びたい気持ちを飲み込んで。
グーデリアンはため息をつきながら立ち上がり、ハイネルの膝の間に立て膝で割り込んだ。見上げると丁度、ソファに座ったハイネルと目線が合う。その目はまるで親を見失った子供のように頼りなく見えた。
-・・・・・・あーあ。俺もあいつも被害者ってことか。
「本当、あいつに同情するよ・・。」
ぼそっと呟かれた言葉にハイネルが小首をかしげる。その頬に指を添え、グーデリアンははっきりと言った。
「・・愛してる。」
「信じて、いいのか?」
「まぁ、俺はひどいことをしたから、信じてもらえないだろうけどなぁ・・・」
予想以上の返答に苦笑するグーデリアンに、ハイネルは続けた。
「・・繰り返すが、私には多分、人を愛するという気持ちがわからない。それでもいいのか?」
「・・俺がゆっくり教えてやるよ。今までの分も、今からの分もな。」
ティーンのように、頬にぎこちないキスをする。白いハイネルの肌に、はじめて薄く紅がさした。
-そして、恋はやっと始まった。
もうすぐシーズンが始まる頃となった頃になると、グーデリアンの蛮行はますます回数が増えていた。
さすがにイベントやレース前に手を出してくることはなかったが、突如深夜に押しかけてきては
無尽蔵な性欲に朝まで翻弄されることも多く、ハイネルの精神的・肉体的な疲労は極限に達していた。
眼前を走り抜ける金色の車体が火花を散らす。ドイツのテストコースで、ハイネルはマシンの最終調整にはいっていた。
「安定してきましたね。」
「悪くはないな。グーデリアンの分に関しては。」
投入二年目の車体もこなれてきて、昨シーズンでは対応しきれなかったプログラミングのホールに関しても今期は問題なく処理できている。
「・・しかし、車体に関しては早急に改善型を検討したほうがいいかもしれませんね。他社の動きが思ったよりも激しくなってきたようです。」
「わかっている。策はある。」
あることはあるのだが、最近の荒れた生活のせいで集中力が持続できていない。先日などは空港でうっかり捕まったインタビューアーの質問に対し、聞き返すことすらあった。
-・・こうなるのは覚悟の上だろう、フランツ・ハイネル?。
ため息混じりにデータを検討するハイネルの携帯電話が鳴った。
「・・・・ハイネルだ・・・今、テスト中なんだが・・何?」
ハイネルは電話を片手にコース上の金色の車体をちらりと見ると、うなずいた。
「・・わかった・・行く。」
携帯をぱたんと折りたたむと、ハイネルはスタッフに声をかけ、オフィスへ立ち去った。
「ハイネル、どうしたの?途中からいなくなっただろ?」
「よくわかりますね。」
マシンから降りながら、ヘルメットを脱ぐグーデリアンにスタッフが飲み物とタオルを渡す。
ドライバーにとって必要な資質の一つが、動体視力だ。実際にマシンを動かす反射神経・周回に耐えうる体力などはもちろんだが、戦況を的確に判断するためには動体視力はかかせない。恐ろしいスピードで視野が狭まる中、最近ではシステムからの補助があるとはいえ、どれだけの情報を瞬時に得られるかという点においてはグーデリアンは恐ろしく野生的ともいえる勘をもっていた。
「急用?」
「急な来客のようですよ。」
「へぇ。あいつが中断?珍しいね。」
グーデリアンの中で、何かがひっかかった。
「お待たせしました。」
「急で悪いな。」
ハイネルは自分のオフィスで来客と対面した。
入るなり、浅黒いほどに焼けた肌と白金髪の若い男ががっちりとハイネルを抱きしめる。
「少しやせたか?飯食ってるか?こないだのインタビューでなんだか疲れているように見えて、心配になってな。」
「そうですか?・・気をつけます。」
笑いながら、向かいのソファに腰を下ろす。
「お会いできてうれしいです、トニオ。」
ハイネルの顔にほっとした笑みが浮かんだ。
「背は伸びたが、相変わらず細っこいなお前は。」
「からかわないでください。」
「中年太りとか言われるよりマシだろ?」
話が盛り上がり始めた頃、こんこんとドアをノックする音が聞こえた。
「失礼。コーヒーが届いたようです。」
ハイネルが立ち上がり、ドアへ向かう。ドアを開けると、そこにはコーヒーの盆を持ったグーデリアンが立っていた。
「・・お前・・」
目を見開いたハイネルを押しのけるように、レーシングスーツ姿のグーデリアンが室内に入る。
「ちょうどそこでエリーゼちゃんに会ってね。大事なスポンサー様にご挨拶をと思ってさぁ。」
陽気な口調で盆をテーブルに置き、トニオの前に立つ。
「こんにちは、えーと、あんたがトニオさん?」
「やぁ。会ってみたかったよ、ジャッキー・グーデリアン。」
立ち上がったトニオが片手を差し出すのを、グーデリアンは唇に薄ら笑いを浮かべたまま、強く払いのけた。
「なぁ、あんた、ハイネルとどういう関係なんだ?こいつ、うわ言でよくあんたの名前呼んでてね。強情で、俺がベッドでどれだけ聞いても絶対教えてくれないわけ。」
「やめないか、グーデリアン!」
割って入ろうとしたハイネルの静止を軽く手でいなし、トニオは肩をすくめた。
「さぁなぁ。頭の黄色いヒヨコ君にはまだ刺激的なんじゃないかなぁ。」
トニオが挑発の台詞を言い終わる前に、グーデリアンの右腕が空を切った。しかしトニオは紙一重でそれをさらりと交わし、瞬く間に腕をねじり上げながらグーデリアンの巨体を床に縫い付けた。
「いい体格はしてるんだが、ツメは荒いな。こっちは代々荒っぽい船乗り相手の商売なんでね。」
「トニオ、乱暴な真似は・・」
「わかっている。大事なドライバーなんだろ?」
怪我をさせるつもりはないというように、トニオはすぐにグーデリアンの上から去った。身を起こしたグーデリアンを見下ろし、トニオが言う。
「俺が誰で、フランツがどう説明しようと気にはしねぇが・・・フランツに何かしでかしてみろ、シチリアの海に叩っこんでやるからな!」
その顔には先ほどまでの笑い皺の目立つ美丈夫ぶりはなく、裏家業にも精通した人間の暗さと凄みが滲み出ていた。力量をまざまざと見せ付けられたグーデリアンは立ち上がることすら忘れ、床に座りこんだまま、ただ眺めるしかなかった。
「さてと。騒がせて悪かったな、フランツ。帰るわ。」
くるりとハイネルのほうを向いたトニオは、先ほどの形相からは打って変わってもとの明るい笑みに戻っていた。
「あの・・色々と失礼を・・。」
頭を下げるハイネルの髪をぽんぽんとトニオが叩く。
「最初っから、お前の顔見たかっただけだからな。元気ならそれでいい。」
「はい。」
「それとな、・・・・・」
頷くハイネルの耳に、何やら母国語で囁いた。
目を丸くするハイネルににやっと笑いかけ、トニオはドアから出て行った。
「・・で、あいつ結局何もん?」
「・・・・・・・・・・・・・・」
やっと床から立ち上がり、ソファに座ったグーデリアンは憮然として腕を組んだ。
「なぁ・・俺問答無用でここまでボコボコにされたんだぜ。そろそろ教えてくれていいんじゃね?」
「最初に吹っかけたのはお前だろう。」
向かいに腰をかけ、ハイネルはため息をついた。騒ぎですっかり忘れ去られていたコーヒーを軽くかき混ぜると一口含み、一言ずつ語りはじめた。
「彼は・・その・・高等学校の先輩だった。」
-12歳になったハイネルは、良家の子息が集う全寮制の学校に入学した。
そこでは各家で何不自由なく育てられた子息が共同生活をすることで協調性や統率力を身につけることをモットーとしていた。また、卒業生同士が大きなネットワークをもち、そこに入って優秀な成績を収めることはその後の人生に大きな影響を及ぼしていた。
そこではフランツ・ハイネルは、裕福ではあったが大富豪や王族、財閥の子息といった中ではたかが自動車会社の、それも跡継ぎとして確定していない三男の息子というどちらかといえば重要視されないタイプの生徒だった。
別に彼自身は父譲りの質素でシンプルな生活に慣れていたし、静かで古めかしい図書館で好きなだけ本が読めればそれだけで幸せだと感じていたが、中にはそこにつけこんで明らかに見下す生徒や、妙なアプローチをかけてくるものもいた。
その学校では一人の新入生に対し、指導係の生徒が一人つく慣習がある。そこでハイネルの指導係に選ばれたのがトニオだった。
トニオの実家はイタリアで古くから海運業を営む会社だった。地中海の風をいっぱいに受けて育った彼は自由奔放で豪放磊落という言葉こそがぴったりで、勉強嫌いだが妙に頭が切れて時に教師ですら持て余す存在だった。そんなトニオに対し、いわゆる優等生でほうっておいても何の問題のないハイネルをあてたのには学校側の思惑があったのかもしれない。
しかし、家庭環境など似たところの多い異端児同士は妙に気が合った。理系教科の得意なハイネルに対し、地理や語学、意外にも文学や芸術にまで精通するトニオはハイネルを休日ごとに美術館や博物館に連れ出し、作者の生い立ちから時代背景から詳しくわかりやすく説明しては興味をもたせた。トニオからすれば、感情を不器用にしか表せないハイネルが可愛かったのかもしれない。また、ハイネルから見れば、トニオの傍はぶしつけな視線やわずらわしい雑音からある程度遠ざかることができる、安息の地だった。
そんな居心地の良さが、いつの間にか友情以上の信頼関係を二人に抱かせてしまっていた。
肉体関係があったわけではないが、自然と体を寄せ合い、笑いあいながら一冊の本を読む。そっと物陰で唇を重ねることすらあった。
敵が多かったのも不幸だったのかもしれない。そのうちに、どこからともなく二人の関係が周囲に尾鰭をつけて知れ渡り、大きな問題となってしまった。
不名誉な噂が学校中に広がり、さすがに学校側も見過ごすわけにもいかない事態となった時、ハイネルは背筋が凍る思いだった。名門校での不祥事やドロップアウトはネットワークを通じて今後の将来、ひいては親の事業にまで大きな傷をもたらす。ハイネルは迂闊だった自分を悔い、食事も喉を通らず眠れない日々が続き、遂に倒れてしまった。
その間にトニオは自分がハイネルに無理に関係を迫ったと言い張り、ハイネルに反論や弁明の機会を与える暇もなく自主退学をしてしまったのだ。
もちろんそれを知ったハイネルは激しく学校に抗議したが、事情を察した一部の教師達により押しとどめられ、表向きにはトニオの名誉は回復されることはなかった。
「・・私は、結局、彼の将来を台無しにしたんだ。」
すっかり冷めたコーヒーを片手にハイネルは薄く微笑んだ。
「好きだったのか。」
「よくわからない・・・彼といるのは楽しかっ・・た・・いや、違うな。ひどい言い方で言えば、楽、だったのかもしれない。彼は危なっかしくて放っておけないからと言って、何かと世話を焼いてくれたから。」
「ひどいなお前。」
「あぁ。せめて心から彼が好きだったと言えれば、彼は少しは救われたはずなんだ。なのに私は多分、愛するという行為がよくわからない。」
苦い言葉を飲み込むハイネルを、グーデリアンはじっと見つめる。
「でも、あいつは今でもお前のこと、好きなんだろ?」
「好きもなにも・・彼も私もゲイじゃない。彼はその後実家を継ぎ、既に結婚して子供もいる。ここ数年会ったこともなかったが、先日の囲み取材で私の顔色が悪かったのを見て心配して来たというだけの話だ。」
グーデリアンの心に波風がたった。
性的な関係はともかく、未だにトニオはハイネルがかわいくて仕方ないのがよくわかる。
今だって、たった数分のインタビューから、こいつが苦しんでいるのを妙な本能で嗅ぎつけてきやがる。悔しいが、トニオはそれだけグーデリアンよりもハイネルの心に近い場所にいるということなのだろうか。
「・・じゃあさ、俺はあんたにとって、何?俺の相手をしていたのも、脅されて、流されてってだけなのか?」
「・・・・・・・・・・・・」
ハイネルは黒い液体の表面に浮かぶ波紋を眺め続けた。
確かに、力で拒むことも出来た。助けを求めることも出来た。
適当な理由をつけて社会から抹殺してやることすら自分には容易にできた。
体を差し出すことでドライバーが確保できるならと、自分の中では割り切れているつもりだった。
だが、ハイネルの中で膨らんできた違和感が、それを拒否していた。
「・・私に関わると不幸になる。わたし、は・・お前に、トニオのように人生に傷を残して欲しくない。」
だから、心だけは決して渡さない。
「それってつまり、俺の人生心配する程度には好きってことでOK?」
「・・・」
ハイネルはトニオが最後ににやりと笑いつつ、母国語で残した言葉を思い出していた。
『こいつ、本気だぜ?』
同性に肩を抱かれたことは何度となくある。本気の告白すら、指折って数える程度にはあった。
しかしトニオ以外のどの男も、いや、女も、ハイネルの見た目と頭脳に魅かれたばかりでその中身に触れてくることはなかった。
なのに目の前の男は、ずけずけと自分の奥に踏み込んでこようとする。
「・・グーデリアン。」
「ん?」
「お前は、私が好きなのか?」
突然の質問にグーデリアンは頬杖をついていた肘を落とした。
「お前なぁ!・・・・・・・」
大体、そもそも俺にそこまでさせたのはお前の言動とか色々!と、叫びたい気持ちを飲み込んで。
グーデリアンはため息をつきながら立ち上がり、ハイネルの膝の間に立て膝で割り込んだ。見上げると丁度、ソファに座ったハイネルと目線が合う。その目はまるで親を見失った子供のように頼りなく見えた。
-・・・・・・あーあ。俺もあいつも被害者ってことか。
「本当、あいつに同情するよ・・。」
ぼそっと呟かれた言葉にハイネルが小首をかしげる。その頬に指を添え、グーデリアンははっきりと言った。
「・・愛してる。」
「信じて、いいのか?」
「まぁ、俺はひどいことをしたから、信じてもらえないだろうけどなぁ・・・」
予想以上の返答に苦笑するグーデリアンに、ハイネルは続けた。
「・・繰り返すが、私には多分、人を愛するという気持ちがわからない。それでもいいのか?」
「・・俺がゆっくり教えてやるよ。今までの分も、今からの分もな。」
ティーンのように、頬にぎこちないキスをする。白いハイネルの肌に、はじめて薄く紅がさした。
-そして、恋はやっと始まった。
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