ぼさぼさ頭をかきまわし、ふぁ・・と大あくびをしながらグーデリアンは朝日のあたる広い廊下を歩いていた。
昨日、というか、数時間前までべったりと過ごした朝は、やや睡眠不足ではあるものの体はすっきりとしている。
可愛い声で啼いていた愛しの君はまだベッドの中で夢と現を彷徨っていた。その姿はグーデリアンにとってこの世で一番の好物ではあるが、今朝はリサにグーデリアン家特製のパンケーキをご馳走する約束があり、枕元に冷たい水とメモを残して名残惜しく抜け出してきたのだった。
「・・・・さーてと。」
「おはよう。」
ベリーがあったから軽く煮てソースにするかなぁなんて思いながらキッチンのドアを開けると、そこには想定外の先客がいた。
「・・・おは・・って・・・・なんでここにいるんですか、社長?」
「私が自宅にいて何がおかしい。」
食事は本宅から運ばせればとりあえず世話はないが、時々気まぐれで本格的な料理をする家主のために作られた別宅のキッチンは、ラボ近くのハイネルのアパートメントのミニキッチンとは雲泥の差だった。
何口ものガスコンロと大きなオーブン、ぴかぴかに磨かれた数々の鍋や調理家電など。
アメリカの実家の雑然と温かいキッチンに比べれば、ここは常にショールームのようではあったが。
ハイネルを縦に一回り。横に二回り(全盛期比)ほど小柄にしたらこんな感じだろうという風体のシュトロブラムス社長は、キッチンの真ん中に置いた大きなテーブルで、洗ったベリーを皿に山盛りにして優雅につまんでいた。
いつものスーツ姿ではなく、綺麗に仕立てた生成りのリネンのシャツの上にざっくりとした淡いグレーのサマーカーディガンを羽織っている。
生活感のないキッチンの、生活感のない美壮年はそのまま何かの広告のショットになりそうだ。
髪もかっちりと固めず前髪をややふわりと細めの眼鏡の上に流した様子は、あまりにも素のフランツ・ハイネルそっくりで。骨格が似ているということは、声すらもよく似ていて。
ハイネル家に頻繁に滞在するようになって最初にこの姿を見た時、グーデリアンは思わずフランツ・ハイネルとこの社長の顔を交互に1分×3セットほど眺めては双方からステレオで気持ち悪い!と叫ばれたのだった。
「おはようグーデリアンさーん。パンケーキできてるー?・・あれ、お父さん?珍しいね!」
「おはよう。・・・・・・・・・・。」
駆け込んできたリサの、生足ホットパンツにふりふりタンクトップの軽装に口を開きかけては、社長はすぐにグラスに注いだペリエを口に運び、何かをまずそうに飲みこんだ。
「・・・・グーデリアン君、次はガスなしの軟水を用意しておいてくれ。」
一瞬、淡いブラウンの眼からいつもの商売用の不敵な微笑みが消えたのを、グーデリアンは面白そうに眺めた。
「土日はベルリンのほうに帰ってるんじゃなかったっすか?」
「今週末は母が旅行中でな。たまの休みに時間が出来たから、久々にフランツのコーヒーが飲みたいと思ったんだが。フランツはまだ寝ているのか?」
「あー、夜遅くまで仕事してたみたいで。」
グーデリアンは発酵済のパンケーキ生地を冷蔵庫から出した。まさか自分の部屋(客間)にいるとは言えない。
「けしからんな。私だって昨夜は3時まで仕事をしていたぞ。」
「お父さんも仕事好きだもんねぇ。こう見えて。」
リサは冷蔵庫から牛乳を取り出しグラスに注いだ。
「・・どういう意味かな、リサ?」
「お兄ちゃんもパパも、カッコつけてないで、仕事大変な時はちょっと投げちゃったほうがいいとリサ思うよ?。」
水面下の白鳥の努力を、要するに見栄っ張りなんでしょの一言で片づけた娘に、社長は綺麗な眉を顰めた。
「ところで、グーデリアンさん、リサお腹すいた。」
「えーと、レーズンとバナナ入りのパンケーキでいいかな?」
あてにしていたベリーが二人によってあらかた食べつくされてしまったのを見て、グーデリアンは冷蔵庫の中から急遽レシピをひねり出した。
「わーい、それリサ大好き。でもお兄ちゃんは嫌いだと思うよ?前チョコバナナパンケーキ作ったら結局ほとんど食べずに処分しちゃったみたい。」
「俺が作っても普通に食べてるよ?もしかして、リサちゃんチョコソースどっぷりかけたろ?」
「えーっ、あたり。なんでわかるの?」
「うちの妹や姉ちゃんはそうやってたからなぁ。女の子は好きなんだろうけど、彼氏に食べさせるなら有塩のバターかクロテッドクリームでも添えるほうがウケると思うよ?」
「ふーん。なるほどね。パパもパンケーキでいいよね?グーデリアンさんのパンケーキおいしいよ。」
「そうだな、クロテッドクリームとメープルシロップがあるなら。」
「・・・・相変わらずケーキが主食っすか?。糖尿になりますよ?」
「頭の回転を維持するには糖分が一番効率がいいんだ。」
いつだったか、取材の予定があるのに一向に戻ってこないハイネルに業を煮やし、本社での二人の極秘ランチミーティングに乱入したグーデリアンは、この親子の食生活のずれ加減をまざまざと見せつけられた。
社長室で親族にも聞かせられない重くてドロドロとしたナイショ話をしながら座るソファの前のローテーブルには、パソコンと書類の山と、色とりどりのケーキののった皿。甘いものがあまり得意ではないハイネル向けか申し訳程度に小鳥の餌のようなサンドイッチも並んではいるが、それらを昼食と称することにこの親子は全く疑問をもたないということらしい。
『・・乙女かよ!』
グーデリアンはスーツ姿の男二人に、心の奥で最大ボリュームでつっこんだ。
「フランツはまだ起きてこないな・・仕方がない。私がコーヒーを淹れよう。」
「あ、俺やりますよ?」
「アメリカ人のコーヒーなんぞ飲めるか。それも男が淹れたものなんて。」
『起こしに行く』と言いださないかとひやひやしていたグーデリアンがいささかほっとして冷蔵庫に向かうと、立ち上がった社長はしっしっと手を振った。
「あたしが淹れてあげる~。」
「・・・・いや、豆が無駄になるだけだ。」
「それ、ひどくない?」
聞かないふりをして、社長はパンケーキを焼くグーデリアンの横でケトルに水をはり、火にかける。
その間に冷凍庫から少量ずつパックした挽いたコーヒーを取り出し、人数分のカップとコーヒーポットを用意し、適度に室温に慣れたコーヒーをドリッパーにセットする。
「社長、意外にマメっすね。」
湧いた湯をドリップケトルに移す。コーヒーポットにも少量注ぎ、温める。
「お前、私をなんだと思ってるんだ?いいか、上に立つものは人一倍働き、なんでも出来るようでなくては話にならんのだ。」
コーヒーポットの湯を今度はカップに注ぎ、ドリッパーをセットして適度に冷めたドリップケトルから滴々と湯を落として蒸らしながら社長はきっかりと時間を計る。横ではバターを溶かしたフライパンで、ふっくらとパンケーキが焼き上がっていく。
「へいへい。そういうとこフランツ・ハイネルそっくりです。」
「当たり前だ。フランツは私がもつ知識や経営技術のすべてを与えて育てたからな。」
「そういうとこ、隠しもしないでざっくざく言っちゃうのがパパらしいよね。聞いたよ?親族会議でおじさんたち相手に『別に、君たちの子供にフランツやリサより優秀な人材がいれば、次期社長を譲ってやってもいいんだがね』とか言っちゃったんだって?。」
「本当のことだろう。うちは実力主義だ。」
三男でありながら、その手腕で社長をもぎ取った男はさらりと言い切る。
「えー・・お兄ちゃんはともかくぅ、リサはよけといて欲しかったなぁ。リサは何も知らない可愛いお嫁さんになって、裏から会社牛耳るってのが夢なんだから。」
「・・そういうのは、何も知らない可愛いお嫁さんは言わないと思うよ?」
「そぉ?」
グーデリアンが呟いた言葉に、リサはまったく底の推し量れない笑顔でにっこりと答えた。
「あ、そうだお父さん、明日オフとれたから、ママ帰ってくるって。2か月ぶり?」
先に焼けた分のパンケーキの皿をグーデリアンからもらい、たっぷりとチョコレートソースをかけながらリサが言う。無心でドリップ作業に集中していた社長が熱いポットを持ったままくるりと振り返り、グーデリアンは一歩後ずさった。
「何?私は知らんぞ!」
「昨日お兄ちゃんからメール来たよ?」
「フランツめ・・・。急用を思い出した。私は帰る!」
ポットを乱暴にコンロに置き、社長は大股で竜巻のようにキッチンから去っていった。後にはもぐもぐとパンケーキを咀嚼するリサと、焼きあがった次の皿を持ち、ぽかんとしたグーデリアンが残された。
「・・リサちゃん。どしたの社長。」
グーデリアンはすっかり落ち切ったドリッパーを外し、温めたカップの湯を切って等分に注ぐ。リサの分はカフェ・オレにして。
「ママが帰ってくるから歓迎の用意をしにいったんだと思うよ。帰ってくるたびに大騒ぎになるからママはますますあんまりこっちに寄りつかないんだけど。」
「・・面白い夫婦関係だね?」
「まぁね?あれでもママが好きで好きで仕方ないみたいだし?」
「・・俺んちも強いのは母ちゃんで父ちゃんは尻に敷かれてるんだけどさ、なんか違う・・・・」
「そ?まぁ本人たちがいいんだからそれでいいんだよ。ごちそうさま。おいしかった!じゃリサ遊びに行ってくる!」
ぐっとカフェ・オレを飲みほし、食べ終わった皿を流しに収めて、リサもあわただしく自分の部屋に戻って行った。
「・・・・・・・・・・・父の車の音がしたが、何かあったのか?」
キッチンのドアが開き、まだ眼が半分とじたままのハイネルが現れた。
眼鏡がないため、目を眇める様子がより寝起きの不機嫌さを物語っていた。
「あ。コーヒー飲む?」
「あぁ。」
ハイネルの前に、バターを添えたパンケーキとコーヒーを置く。
自分の分のパンケーキを焼きつつグーデリアンは立ったままコーヒーを一口飲んで、ハイネルが淹れるのとほぼ同じ味であることに気づく。
「社長、お母さんが来る用意をするとか言ってたけど。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・母には、言うなと言われていたのに・・・。」
さっき廊下で出会ったリサの姿恰好といい、これから届くだろう色々な愚痴と小言の数々を思いながらフランツ・ハイネルは大きくため息をついた。
『・・面白いよなぁ、ここんち。』
至極健康的で真っ当でうざったい家族で育ったグーデリアンから見ればなんというか、歪で面倒で掟破りな家族関係だと思う。
四方八方に自分の好きなことをしているくせに、ド真ん中にあるフランツ・ハイネルというターミナルを介してなんとなくつながっている。だからこそ微妙な立場の自分がキッチンで料理をしていても、深く考えずに受け入れてくれているのだろうが。
グーデリアンは自分のパンケーキを皿にとり、フォークを持ったまま今にもまた眠りそうなハイネルの横に座る。ハイネルの前のパンケーキが一向に減る気配が見えないのを引き取ってやり、自分のフォークで適当な大きさに切って口の前に出すと大人しく口を開けた。
「どう?」
「・・いつもどおり・・・が・・」
「いいから、二度寝してこいよ。」
「・・せっかくの休みなのに・・」
なんとか起きようとするが眼が開かないハイネルの姿に、グーデリアンが苦笑する。
「俺も眠いから、片付けたら行くよ。グダグダ昼過ぎまで寝て、昼は外で食べよう。」
「・・ん。」
眼を閉じたハイネルはグーデリアンの肩にもたれた。その温かさと重さをグーデリアンはそっと大きな手で包みこんだ。
-こんな、なにもない日をつまり人は幸せというのだろう。
-------------
前の逆パターンで。朝のハイネルさんち。
昨日、というか、数時間前までべったりと過ごした朝は、やや睡眠不足ではあるものの体はすっきりとしている。
可愛い声で啼いていた愛しの君はまだベッドの中で夢と現を彷徨っていた。その姿はグーデリアンにとってこの世で一番の好物ではあるが、今朝はリサにグーデリアン家特製のパンケーキをご馳走する約束があり、枕元に冷たい水とメモを残して名残惜しく抜け出してきたのだった。
「・・・・さーてと。」
「おはよう。」
ベリーがあったから軽く煮てソースにするかなぁなんて思いながらキッチンのドアを開けると、そこには想定外の先客がいた。
「・・・おは・・って・・・・なんでここにいるんですか、社長?」
「私が自宅にいて何がおかしい。」
食事は本宅から運ばせればとりあえず世話はないが、時々気まぐれで本格的な料理をする家主のために作られた別宅のキッチンは、ラボ近くのハイネルのアパートメントのミニキッチンとは雲泥の差だった。
何口ものガスコンロと大きなオーブン、ぴかぴかに磨かれた数々の鍋や調理家電など。
アメリカの実家の雑然と温かいキッチンに比べれば、ここは常にショールームのようではあったが。
ハイネルを縦に一回り。横に二回り(全盛期比)ほど小柄にしたらこんな感じだろうという風体のシュトロブラムス社長は、キッチンの真ん中に置いた大きなテーブルで、洗ったベリーを皿に山盛りにして優雅につまんでいた。
いつものスーツ姿ではなく、綺麗に仕立てた生成りのリネンのシャツの上にざっくりとした淡いグレーのサマーカーディガンを羽織っている。
生活感のないキッチンの、生活感のない美壮年はそのまま何かの広告のショットになりそうだ。
髪もかっちりと固めず前髪をややふわりと細めの眼鏡の上に流した様子は、あまりにも素のフランツ・ハイネルそっくりで。骨格が似ているということは、声すらもよく似ていて。
ハイネル家に頻繁に滞在するようになって最初にこの姿を見た時、グーデリアンは思わずフランツ・ハイネルとこの社長の顔を交互に1分×3セットほど眺めては双方からステレオで気持ち悪い!と叫ばれたのだった。
「おはようグーデリアンさーん。パンケーキできてるー?・・あれ、お父さん?珍しいね!」
「おはよう。・・・・・・・・・・。」
駆け込んできたリサの、生足ホットパンツにふりふりタンクトップの軽装に口を開きかけては、社長はすぐにグラスに注いだペリエを口に運び、何かをまずそうに飲みこんだ。
「・・・・グーデリアン君、次はガスなしの軟水を用意しておいてくれ。」
一瞬、淡いブラウンの眼からいつもの商売用の不敵な微笑みが消えたのを、グーデリアンは面白そうに眺めた。
「土日はベルリンのほうに帰ってるんじゃなかったっすか?」
「今週末は母が旅行中でな。たまの休みに時間が出来たから、久々にフランツのコーヒーが飲みたいと思ったんだが。フランツはまだ寝ているのか?」
「あー、夜遅くまで仕事してたみたいで。」
グーデリアンは発酵済のパンケーキ生地を冷蔵庫から出した。まさか自分の部屋(客間)にいるとは言えない。
「けしからんな。私だって昨夜は3時まで仕事をしていたぞ。」
「お父さんも仕事好きだもんねぇ。こう見えて。」
リサは冷蔵庫から牛乳を取り出しグラスに注いだ。
「・・どういう意味かな、リサ?」
「お兄ちゃんもパパも、カッコつけてないで、仕事大変な時はちょっと投げちゃったほうがいいとリサ思うよ?。」
水面下の白鳥の努力を、要するに見栄っ張りなんでしょの一言で片づけた娘に、社長は綺麗な眉を顰めた。
「ところで、グーデリアンさん、リサお腹すいた。」
「えーと、レーズンとバナナ入りのパンケーキでいいかな?」
あてにしていたベリーが二人によってあらかた食べつくされてしまったのを見て、グーデリアンは冷蔵庫の中から急遽レシピをひねり出した。
「わーい、それリサ大好き。でもお兄ちゃんは嫌いだと思うよ?前チョコバナナパンケーキ作ったら結局ほとんど食べずに処分しちゃったみたい。」
「俺が作っても普通に食べてるよ?もしかして、リサちゃんチョコソースどっぷりかけたろ?」
「えーっ、あたり。なんでわかるの?」
「うちの妹や姉ちゃんはそうやってたからなぁ。女の子は好きなんだろうけど、彼氏に食べさせるなら有塩のバターかクロテッドクリームでも添えるほうがウケると思うよ?」
「ふーん。なるほどね。パパもパンケーキでいいよね?グーデリアンさんのパンケーキおいしいよ。」
「そうだな、クロテッドクリームとメープルシロップがあるなら。」
「・・・・相変わらずケーキが主食っすか?。糖尿になりますよ?」
「頭の回転を維持するには糖分が一番効率がいいんだ。」
いつだったか、取材の予定があるのに一向に戻ってこないハイネルに業を煮やし、本社での二人の極秘ランチミーティングに乱入したグーデリアンは、この親子の食生活のずれ加減をまざまざと見せつけられた。
社長室で親族にも聞かせられない重くてドロドロとしたナイショ話をしながら座るソファの前のローテーブルには、パソコンと書類の山と、色とりどりのケーキののった皿。甘いものがあまり得意ではないハイネル向けか申し訳程度に小鳥の餌のようなサンドイッチも並んではいるが、それらを昼食と称することにこの親子は全く疑問をもたないということらしい。
『・・乙女かよ!』
グーデリアンはスーツ姿の男二人に、心の奥で最大ボリュームでつっこんだ。
「フランツはまだ起きてこないな・・仕方がない。私がコーヒーを淹れよう。」
「あ、俺やりますよ?」
「アメリカ人のコーヒーなんぞ飲めるか。それも男が淹れたものなんて。」
『起こしに行く』と言いださないかとひやひやしていたグーデリアンがいささかほっとして冷蔵庫に向かうと、立ち上がった社長はしっしっと手を振った。
「あたしが淹れてあげる~。」
「・・・・いや、豆が無駄になるだけだ。」
「それ、ひどくない?」
聞かないふりをして、社長はパンケーキを焼くグーデリアンの横でケトルに水をはり、火にかける。
その間に冷凍庫から少量ずつパックした挽いたコーヒーを取り出し、人数分のカップとコーヒーポットを用意し、適度に室温に慣れたコーヒーをドリッパーにセットする。
「社長、意外にマメっすね。」
湧いた湯をドリップケトルに移す。コーヒーポットにも少量注ぎ、温める。
「お前、私をなんだと思ってるんだ?いいか、上に立つものは人一倍働き、なんでも出来るようでなくては話にならんのだ。」
コーヒーポットの湯を今度はカップに注ぎ、ドリッパーをセットして適度に冷めたドリップケトルから滴々と湯を落として蒸らしながら社長はきっかりと時間を計る。横ではバターを溶かしたフライパンで、ふっくらとパンケーキが焼き上がっていく。
「へいへい。そういうとこフランツ・ハイネルそっくりです。」
「当たり前だ。フランツは私がもつ知識や経営技術のすべてを与えて育てたからな。」
「そういうとこ、隠しもしないでざっくざく言っちゃうのがパパらしいよね。聞いたよ?親族会議でおじさんたち相手に『別に、君たちの子供にフランツやリサより優秀な人材がいれば、次期社長を譲ってやってもいいんだがね』とか言っちゃったんだって?。」
「本当のことだろう。うちは実力主義だ。」
三男でありながら、その手腕で社長をもぎ取った男はさらりと言い切る。
「えー・・お兄ちゃんはともかくぅ、リサはよけといて欲しかったなぁ。リサは何も知らない可愛いお嫁さんになって、裏から会社牛耳るってのが夢なんだから。」
「・・そういうのは、何も知らない可愛いお嫁さんは言わないと思うよ?」
「そぉ?」
グーデリアンが呟いた言葉に、リサはまったく底の推し量れない笑顔でにっこりと答えた。
「あ、そうだお父さん、明日オフとれたから、ママ帰ってくるって。2か月ぶり?」
先に焼けた分のパンケーキの皿をグーデリアンからもらい、たっぷりとチョコレートソースをかけながらリサが言う。無心でドリップ作業に集中していた社長が熱いポットを持ったままくるりと振り返り、グーデリアンは一歩後ずさった。
「何?私は知らんぞ!」
「昨日お兄ちゃんからメール来たよ?」
「フランツめ・・・。急用を思い出した。私は帰る!」
ポットを乱暴にコンロに置き、社長は大股で竜巻のようにキッチンから去っていった。後にはもぐもぐとパンケーキを咀嚼するリサと、焼きあがった次の皿を持ち、ぽかんとしたグーデリアンが残された。
「・・リサちゃん。どしたの社長。」
グーデリアンはすっかり落ち切ったドリッパーを外し、温めたカップの湯を切って等分に注ぐ。リサの分はカフェ・オレにして。
「ママが帰ってくるから歓迎の用意をしにいったんだと思うよ。帰ってくるたびに大騒ぎになるからママはますますあんまりこっちに寄りつかないんだけど。」
「・・面白い夫婦関係だね?」
「まぁね?あれでもママが好きで好きで仕方ないみたいだし?」
「・・俺んちも強いのは母ちゃんで父ちゃんは尻に敷かれてるんだけどさ、なんか違う・・・・」
「そ?まぁ本人たちがいいんだからそれでいいんだよ。ごちそうさま。おいしかった!じゃリサ遊びに行ってくる!」
ぐっとカフェ・オレを飲みほし、食べ終わった皿を流しに収めて、リサもあわただしく自分の部屋に戻って行った。
「・・・・・・・・・・・父の車の音がしたが、何かあったのか?」
キッチンのドアが開き、まだ眼が半分とじたままのハイネルが現れた。
眼鏡がないため、目を眇める様子がより寝起きの不機嫌さを物語っていた。
「あ。コーヒー飲む?」
「あぁ。」
ハイネルの前に、バターを添えたパンケーキとコーヒーを置く。
自分の分のパンケーキを焼きつつグーデリアンは立ったままコーヒーを一口飲んで、ハイネルが淹れるのとほぼ同じ味であることに気づく。
「社長、お母さんが来る用意をするとか言ってたけど。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・母には、言うなと言われていたのに・・・。」
さっき廊下で出会ったリサの姿恰好といい、これから届くだろう色々な愚痴と小言の数々を思いながらフランツ・ハイネルは大きくため息をついた。
『・・面白いよなぁ、ここんち。』
至極健康的で真っ当でうざったい家族で育ったグーデリアンから見ればなんというか、歪で面倒で掟破りな家族関係だと思う。
四方八方に自分の好きなことをしているくせに、ド真ん中にあるフランツ・ハイネルというターミナルを介してなんとなくつながっている。だからこそ微妙な立場の自分がキッチンで料理をしていても、深く考えずに受け入れてくれているのだろうが。
グーデリアンは自分のパンケーキを皿にとり、フォークを持ったまま今にもまた眠りそうなハイネルの横に座る。ハイネルの前のパンケーキが一向に減る気配が見えないのを引き取ってやり、自分のフォークで適当な大きさに切って口の前に出すと大人しく口を開けた。
「どう?」
「・・いつもどおり・・・が・・」
「いいから、二度寝してこいよ。」
「・・せっかくの休みなのに・・」
なんとか起きようとするが眼が開かないハイネルの姿に、グーデリアンが苦笑する。
「俺も眠いから、片付けたら行くよ。グダグダ昼過ぎまで寝て、昼は外で食べよう。」
「・・ん。」
眼を閉じたハイネルはグーデリアンの肩にもたれた。その温かさと重さをグーデリアンはそっと大きな手で包みこんだ。
-こんな、なにもない日をつまり人は幸せというのだろう。
-------------
前の逆パターンで。朝のハイネルさんち。
PR
「ん・・・・」
カーテンから差し込む光が明るい。
やけにぐっすり眠った気がするなと思い、時計を見たハイネルは目を疑った。
「・・・まずい!」
一気に頭に血が巡る。
自分には50分後には本社で、サプライヤーとの打ち合わせの予定がある。
隣でまだのどかに寝こけている金髪男は、確か30分後にはラボのほうで社外技術者を呼んでのタイヤテストがあったはずだ。
本社までは車で30分。ラボまでは5分。ならば優先順位は自分のほうだ。
「グーデリアン、起きろ!寝過ごした!」
ハイネルはまだ自分の体に絡みつく太い腕を押しやり、ベッドから抜け出るついでにその重い体をベッドの向こうへ蹴り飛ばした。
「・・うぁ?」
キングサイズのベッドからまさか蹴り落とされる日が来るなんて。
グーデリアンが寝ぼけた頭でのそのそと起き上がると、ガウンだけを羽織りばたばたと走っていくハイネルの後ろ姿。
「バスは先に使わせてもらうぞ!お前も支度をしろ!」
「・・うーぃ?」
何のことやらまだ事情が分からないグーデリアンがのっそりと長い腕を伸ばし、時計を見てつぶやく。
「おー・・・マイガー・・」
わかったところで遅刻常習犯の自分としてはどうする気もないのだけれど。
グーデリアンはとりあえず床に転がっていたジーンズその他を拾い集め、クローゼットを開いて自分とハイネルの分のシャツをとりだした。
「すまない、寝過ごした。グーデリアンも今起こしたから少し遅れると思う。それまで繋いでおいてくれ。」
グーデリアンがシャワーから出てくると、ハイネルはすっかり身支度を整えていた。ワックスで髪を立てながらスピーカー設定の携帯に向かって指示を出している。相手はラボの誰かだろう。
続いて、小指だけで電話を切り替え、ドイツ語で何かの指示をしている。こちらは本社だろうか。
グーデリアンの身支度は簡単にジーンズとシャツとジャケットだけを羽織り、完了する。後は電話と財布と車のカギをポケットに突っ込むだけ。
乱れたままのベッドや汚れたシーツなど、散乱する昨日の名残を見渡し、そんなことはもう覚えてもいないハイネルの姿に苦笑する。
冷蔵庫から小瓶のリンゴジュースを2本取り出すと、1本を一気に飲み干し、もう1本はパソコンと携帯を鞄に入れているハイネルに渡した。
「んじゃ、俺先行くわ。帰りは多分俺のほうが早いと思うよ。」
「あぁ。私は昼から外出だから遅くなるかも。」
出かけ際に軽いキスだけを交わし、それぞれにアパートメントから飛び出した。
「・・・・・・・・・・・・魔法使いとか?」
夕方、まだ夕日が残る時間に帰宅したグーデリアンは、朝とは様変わりしたアパートメントの様子に首をかしげた。
洗濯物はきちんと洗って畳まれ、シャツはアイロンがかけられてクローゼットの中におさまっている。
ベッドのシーツは洗濯され、ぴしっと皺ひとつなくメイキングされていて。
「・・親切な空き巣ってわけでもないよなぁ。」
冷蔵庫の中にはすぐ食べられるような夕飯まで用意されている。
ハイネルが仕事の合間に帰ってきたのだろうか。
それにしても片付きすぎているよなぁと、グーデリアンは朝捨てたはずのジュースの瓶すら残っていないキッチンを不思議に眺めた。
「戻った。」
「おかえり。」
「なぁ、ハイネル、昼間帰ってきた?」
「・・?」
夜も更けたころ帰宅したハイネルと温めた夕食を前にして、グーデリアンは今日の不思議な空き巣の話を振ってみた。ハイネルは一瞬きょとんとした顔をしたが、こともなげに魔法の種明かしをした。
「あぁ、本宅からクリーニングとランドリーを呼んだから。ついでに、私が早くに帰れないと思ったから、適当な食事もケータリングしてもらった。今までも時々呼んでいたんだが気付かなかったのか?」
ハイネルの話によれば、このアパートメントから父やリサが住むシュツットガルトの本宅(ハイネル家にはさらにベルリンの超本宅というものもあったりするのだが)までは車で30分ほど。人出はあるので、電話一本で色々な用事を依頼していたという。
「てっきり、ハイネルがやってるんだと思ってたんだけど。」
「出来ないこともないが、そこまで暇でもないのでな。」
「あー、なるほど。・・・・・・・・・・・・・・・・って、待てよ?」
グーデリアンは「きれいになっていた」物の記憶をたどって慄いた。
色々なものが染みたり散ったりしたあの寝具とか、他人には決してお見せしないほうがいいと思われる内容のダストボックスの中身とか、どう考えても不自然なベッドサイドに散らかる男二人分の衣類とか?
「なぁ・・・・色々まずくない?その・・俺はまだしも、お前はさ。」
「何が?業者に任せるよりは信頼がおけるから便利だぞ。」
スープをスプーンにすくったまま、首をかしげて手を止めるハイネルには全く心当たりも警戒心もなく。
グーデリアンは本宅で出会う、そんなことはおくびにすら出さない見目麗しいメイドさん達の姿を思い出しては、さらに居たたまれない気持ちになっていた。
「・・いや、それも悪いし、これからは俺が出来る限り家事をするよ。」
「殊勝な心がけだな。せいぜいあてにしておくからよろしく。」
片眉を上げて驚いてみせるハイネルに、グーデリアンは頭を抱えた。
-本物のおぼっちゃまって奴は、スケールが違う。
-----------------------
同居して2ヶ月目くらいでわかった意外な真実。
カーテンから差し込む光が明るい。
やけにぐっすり眠った気がするなと思い、時計を見たハイネルは目を疑った。
「・・・まずい!」
一気に頭に血が巡る。
自分には50分後には本社で、サプライヤーとの打ち合わせの予定がある。
隣でまだのどかに寝こけている金髪男は、確か30分後にはラボのほうで社外技術者を呼んでのタイヤテストがあったはずだ。
本社までは車で30分。ラボまでは5分。ならば優先順位は自分のほうだ。
「グーデリアン、起きろ!寝過ごした!」
ハイネルはまだ自分の体に絡みつく太い腕を押しやり、ベッドから抜け出るついでにその重い体をベッドの向こうへ蹴り飛ばした。
「・・うぁ?」
キングサイズのベッドからまさか蹴り落とされる日が来るなんて。
グーデリアンが寝ぼけた頭でのそのそと起き上がると、ガウンだけを羽織りばたばたと走っていくハイネルの後ろ姿。
「バスは先に使わせてもらうぞ!お前も支度をしろ!」
「・・うーぃ?」
何のことやらまだ事情が分からないグーデリアンがのっそりと長い腕を伸ばし、時計を見てつぶやく。
「おー・・・マイガー・・」
わかったところで遅刻常習犯の自分としてはどうする気もないのだけれど。
グーデリアンはとりあえず床に転がっていたジーンズその他を拾い集め、クローゼットを開いて自分とハイネルの分のシャツをとりだした。
「すまない、寝過ごした。グーデリアンも今起こしたから少し遅れると思う。それまで繋いでおいてくれ。」
グーデリアンがシャワーから出てくると、ハイネルはすっかり身支度を整えていた。ワックスで髪を立てながらスピーカー設定の携帯に向かって指示を出している。相手はラボの誰かだろう。
続いて、小指だけで電話を切り替え、ドイツ語で何かの指示をしている。こちらは本社だろうか。
グーデリアンの身支度は簡単にジーンズとシャツとジャケットだけを羽織り、完了する。後は電話と財布と車のカギをポケットに突っ込むだけ。
乱れたままのベッドや汚れたシーツなど、散乱する昨日の名残を見渡し、そんなことはもう覚えてもいないハイネルの姿に苦笑する。
冷蔵庫から小瓶のリンゴジュースを2本取り出すと、1本を一気に飲み干し、もう1本はパソコンと携帯を鞄に入れているハイネルに渡した。
「んじゃ、俺先行くわ。帰りは多分俺のほうが早いと思うよ。」
「あぁ。私は昼から外出だから遅くなるかも。」
出かけ際に軽いキスだけを交わし、それぞれにアパートメントから飛び出した。
「・・・・・・・・・・・・魔法使いとか?」
夕方、まだ夕日が残る時間に帰宅したグーデリアンは、朝とは様変わりしたアパートメントの様子に首をかしげた。
洗濯物はきちんと洗って畳まれ、シャツはアイロンがかけられてクローゼットの中におさまっている。
ベッドのシーツは洗濯され、ぴしっと皺ひとつなくメイキングされていて。
「・・親切な空き巣ってわけでもないよなぁ。」
冷蔵庫の中にはすぐ食べられるような夕飯まで用意されている。
ハイネルが仕事の合間に帰ってきたのだろうか。
それにしても片付きすぎているよなぁと、グーデリアンは朝捨てたはずのジュースの瓶すら残っていないキッチンを不思議に眺めた。
「戻った。」
「おかえり。」
「なぁ、ハイネル、昼間帰ってきた?」
「・・?」
夜も更けたころ帰宅したハイネルと温めた夕食を前にして、グーデリアンは今日の不思議な空き巣の話を振ってみた。ハイネルは一瞬きょとんとした顔をしたが、こともなげに魔法の種明かしをした。
「あぁ、本宅からクリーニングとランドリーを呼んだから。ついでに、私が早くに帰れないと思ったから、適当な食事もケータリングしてもらった。今までも時々呼んでいたんだが気付かなかったのか?」
ハイネルの話によれば、このアパートメントから父やリサが住むシュツットガルトの本宅(ハイネル家にはさらにベルリンの超本宅というものもあったりするのだが)までは車で30分ほど。人出はあるので、電話一本で色々な用事を依頼していたという。
「てっきり、ハイネルがやってるんだと思ってたんだけど。」
「出来ないこともないが、そこまで暇でもないのでな。」
「あー、なるほど。・・・・・・・・・・・・・・・・って、待てよ?」
グーデリアンは「きれいになっていた」物の記憶をたどって慄いた。
色々なものが染みたり散ったりしたあの寝具とか、他人には決してお見せしないほうがいいと思われる内容のダストボックスの中身とか、どう考えても不自然なベッドサイドに散らかる男二人分の衣類とか?
「なぁ・・・・色々まずくない?その・・俺はまだしも、お前はさ。」
「何が?業者に任せるよりは信頼がおけるから便利だぞ。」
スープをスプーンにすくったまま、首をかしげて手を止めるハイネルには全く心当たりも警戒心もなく。
グーデリアンは本宅で出会う、そんなことはおくびにすら出さない見目麗しいメイドさん達の姿を思い出しては、さらに居たたまれない気持ちになっていた。
「・・いや、それも悪いし、これからは俺が出来る限り家事をするよ。」
「殊勝な心がけだな。せいぜいあてにしておくからよろしく。」
片眉を上げて驚いてみせるハイネルに、グーデリアンは頭を抱えた。
-本物のおぼっちゃまって奴は、スケールが違う。
-----------------------
同居して2ヶ月目くらいでわかった意外な真実。
ハイネルがパソコンから眼を上げた時、手元の時計は既に23時半を差していた。
思わず伸びをして、今日は珍しく早く寝ようかと空になったコーヒーのカップを取り上げる。
ベッドと机のみのコンパクトな自室からキッチンへ移動しようと立ち上がると、突如机の上の携帯電話が鳴り始めた。
携帯電話の画面で相手を確認すると、ハイネルは大きなため息をつき、しぶしぶと通話のボタンを押した。
「こんな時間に・・」
「・・やっほーハイネル・・・元気ぃ?」
怒鳴りつけてやろうかと思った相手の意外なテンションに、ハイネルの毒気が抜かれる。
「どうしたんだ、一体。」
「うん、なんでもないんだけどさ。ちょっと誰かの声が聞きたくなって。」
なんでもないわけではなさそうな声のグーデリアンに、ますます不信感が募る。
「・・・・今、どこだ?」
「んー、噴水前?。今までバーで飲んでたんだけどね、なんか酔えなくてさ。」
「・・今から行く。そこを動くな。」
手近にあったカーディガンと鍵をつかみ、ハイネルは通話を切らずにアパートメントを飛び出した。
大分暖かくなったものの、夜はまだ気温が下がる。
カーディガンの間から入ってくる湿った冷気を振り切るように石畳を走り抜けると、電話通りの場所にグーデリアンはいた。
「早いね。」
いつもの陽気さをどこかへ置いてきた大男が、噴水に腰かけたまま上を向いて力なく笑う。
ハイネルはやっと手に握りしめた携帯電話の通話を切り、前に立った。
「どうしたというんだ。」
「なんでもないよ。本当に。誰かの声が聞きたかっただけ。」
「・・8時間もすれば朝になる。」
「待てなかったんだ。まさか来てくれるとは思わなかったけど。」
足に肘をつき、手に顎を載せて目を伏せる。その姿があまりにも切なくて思わず。
「・・冷えるから、私のアパートメントにくるか?近くだ。」
「え・・?」
グーデリアンが顔を上げると、そこには自分の口から飛び出した言葉が信じられないといった風のハイネルがいた。
「コーヒーしかないが。」
「うん。」
リビングのソファに座ったグーデリアンに、ハイネルがカップを手渡す。
自分用にも新しいカップを出し、その日何杯目かのコーヒーをほぼ機械的に口に運ぶ。
グーデリアンは濃いコーヒーを一口すすり、手を止めた。
「ハイネル、砂糖、ある?」
普段、砂糖を入れる習慣がないハイネルは、言われるまで気付かなかった。
「置いてないな。えーと・・牛乳ならある。」
「それでいいや。ちょっと薄めていい?」
「持ってこよう。」
キッチンへ向かい、ほとんど物の入っていない冷蔵庫から牛乳を出してリビングへ戻る。
瓶を渡すとグーデリアンはカップのふちまでなみなみと注いだ。
「ドイツのコーヒーって、苦いよなぁ。」
当たり前のことをぽつりとつぶやいたグーデリアンに、ハイネルがいぶかしげに眉をひそめる。
「アメリカのコーヒーが薄すぎるんだ。」
「そだね。でも俺、今まで基本の生活拠点はアメリカだったからさ。」
チームの立ち上げ発表から数カ月。グーデリアンはこの春からはドイツで生活することが多くなった。
「ホームシックか、柄にもない?」
「そうかも。」
からかえばいつものように言い返してくるかと思えば、すんなりと認めてしまう。ハイネルはため息をついた。
「転戦してても基本、レース関係者は英語だろ?」
語学に堪能なハイネルならまだしも、ドイツ語圏内ではグーデリアンは思ったように言葉が通じない。
人生初のアウェイのもどかしさに加えて、コーヒー一つでも違うこの国になかなかなじめないもどかしさがだんだんと積り、グーデリアンの心を浸食していった。
「思ったより、堪えててさ。自分でも情けねぇって思うけど。」
ぽつぽつと語るグーデリアンは、日頃のキャラクターから他のスタッフには言いだせなかったのだろう。
アウェイの厳しさは自分もよくわかっている。軽く笑い飛ばすでもなく、ハイネルはただ静かにうなずいて聞いていた。
「あー、英語で愚痴ったら、なんか気が済んだ。」
ひとしきり話をした後、グーデリアンは大きく伸びをした。すっかり冷めてしまったコーヒーを一気に飲んでしまう。
「落ち着いたら帰れ。もう深夜だ。」
「・・なんか、一人の部屋に帰りたくないんだよ。なぁ、泊まってっていい?」
「構わないが、この家には余分なベッドはないぞ。ソファでよければ。」
「いいよ。」
「では、バスも一つしかないから先に使え。その間に用意する。」
ハイネルがコーヒーのカップを片づけ始めると、グーデリアンは立ち上がった。
「ありがと。」
戸棚を開けて予備のクッションや毛布を出し始める後ろ姿を、なぜか抱きしめたくなった気がした。
「あー、忘れていたが、飲み物や食べ物は冷蔵庫に入っているから適当に食べていいぞ。水と牛乳と果物、あとはシリアルくらいしかないが。」
グーデリアンがクッションを枕に厚い毛布にかけ、タブレット電話をいじりながら寝転がっていると、不意に頭上から声がした。
そちらに目をやると、バスロープ姿の若い男。茶色い洗い髪から覗く緑色の目がこちらを見ていた。
「・・えと・・どちらさま?」
「何を言ってるんだ?」
低い声と、眉をひそめるその仕草はあまりにもよく知ったもので。
「って・・お前、ハイネル?!」
「もう寝ぼけているのか?携帯電話で遊んでないで、さっさと寝ろ。」
肩をすくめると、ハイネルはリビングの電気を消して出て行ってしまった。
グーデリアンはさっき見た光景が目に焼き付いてしまい、暗闇の中でしばらく固まっていた。
『あれが素顔?意外に若い・・ってか、可愛い・・・いや、どうしたの俺?いくらドイツだからってそこまで不自由してないだろ?!』
厚い毛布に潜りながら、自分のホームシックの深さについて悶々と悩むジャッキー・グーデリアンであった。
そして結局は空いた部屋に自分用のベッドを手配してしまい、なし崩しの同居が始まるまであと一カ月。
-----------------------
最後20行が書きたかっただけ。
寂しがりすぎと、面倒見よすぎの泥沼カップル成立までの第一歩。
思わず伸びをして、今日は珍しく早く寝ようかと空になったコーヒーのカップを取り上げる。
ベッドと机のみのコンパクトな自室からキッチンへ移動しようと立ち上がると、突如机の上の携帯電話が鳴り始めた。
携帯電話の画面で相手を確認すると、ハイネルは大きなため息をつき、しぶしぶと通話のボタンを押した。
「こんな時間に・・」
「・・やっほーハイネル・・・元気ぃ?」
怒鳴りつけてやろうかと思った相手の意外なテンションに、ハイネルの毒気が抜かれる。
「どうしたんだ、一体。」
「うん、なんでもないんだけどさ。ちょっと誰かの声が聞きたくなって。」
なんでもないわけではなさそうな声のグーデリアンに、ますます不信感が募る。
「・・・・今、どこだ?」
「んー、噴水前?。今までバーで飲んでたんだけどね、なんか酔えなくてさ。」
「・・今から行く。そこを動くな。」
手近にあったカーディガンと鍵をつかみ、ハイネルは通話を切らずにアパートメントを飛び出した。
大分暖かくなったものの、夜はまだ気温が下がる。
カーディガンの間から入ってくる湿った冷気を振り切るように石畳を走り抜けると、電話通りの場所にグーデリアンはいた。
「早いね。」
いつもの陽気さをどこかへ置いてきた大男が、噴水に腰かけたまま上を向いて力なく笑う。
ハイネルはやっと手に握りしめた携帯電話の通話を切り、前に立った。
「どうしたというんだ。」
「なんでもないよ。本当に。誰かの声が聞きたかっただけ。」
「・・8時間もすれば朝になる。」
「待てなかったんだ。まさか来てくれるとは思わなかったけど。」
足に肘をつき、手に顎を載せて目を伏せる。その姿があまりにも切なくて思わず。
「・・冷えるから、私のアパートメントにくるか?近くだ。」
「え・・?」
グーデリアンが顔を上げると、そこには自分の口から飛び出した言葉が信じられないといった風のハイネルがいた。
「コーヒーしかないが。」
「うん。」
リビングのソファに座ったグーデリアンに、ハイネルがカップを手渡す。
自分用にも新しいカップを出し、その日何杯目かのコーヒーをほぼ機械的に口に運ぶ。
グーデリアンは濃いコーヒーを一口すすり、手を止めた。
「ハイネル、砂糖、ある?」
普段、砂糖を入れる習慣がないハイネルは、言われるまで気付かなかった。
「置いてないな。えーと・・牛乳ならある。」
「それでいいや。ちょっと薄めていい?」
「持ってこよう。」
キッチンへ向かい、ほとんど物の入っていない冷蔵庫から牛乳を出してリビングへ戻る。
瓶を渡すとグーデリアンはカップのふちまでなみなみと注いだ。
「ドイツのコーヒーって、苦いよなぁ。」
当たり前のことをぽつりとつぶやいたグーデリアンに、ハイネルがいぶかしげに眉をひそめる。
「アメリカのコーヒーが薄すぎるんだ。」
「そだね。でも俺、今まで基本の生活拠点はアメリカだったからさ。」
チームの立ち上げ発表から数カ月。グーデリアンはこの春からはドイツで生活することが多くなった。
「ホームシックか、柄にもない?」
「そうかも。」
からかえばいつものように言い返してくるかと思えば、すんなりと認めてしまう。ハイネルはため息をついた。
「転戦してても基本、レース関係者は英語だろ?」
語学に堪能なハイネルならまだしも、ドイツ語圏内ではグーデリアンは思ったように言葉が通じない。
人生初のアウェイのもどかしさに加えて、コーヒー一つでも違うこの国になかなかなじめないもどかしさがだんだんと積り、グーデリアンの心を浸食していった。
「思ったより、堪えててさ。自分でも情けねぇって思うけど。」
ぽつぽつと語るグーデリアンは、日頃のキャラクターから他のスタッフには言いだせなかったのだろう。
アウェイの厳しさは自分もよくわかっている。軽く笑い飛ばすでもなく、ハイネルはただ静かにうなずいて聞いていた。
「あー、英語で愚痴ったら、なんか気が済んだ。」
ひとしきり話をした後、グーデリアンは大きく伸びをした。すっかり冷めてしまったコーヒーを一気に飲んでしまう。
「落ち着いたら帰れ。もう深夜だ。」
「・・なんか、一人の部屋に帰りたくないんだよ。なぁ、泊まってっていい?」
「構わないが、この家には余分なベッドはないぞ。ソファでよければ。」
「いいよ。」
「では、バスも一つしかないから先に使え。その間に用意する。」
ハイネルがコーヒーのカップを片づけ始めると、グーデリアンは立ち上がった。
「ありがと。」
戸棚を開けて予備のクッションや毛布を出し始める後ろ姿を、なぜか抱きしめたくなった気がした。
「あー、忘れていたが、飲み物や食べ物は冷蔵庫に入っているから適当に食べていいぞ。水と牛乳と果物、あとはシリアルくらいしかないが。」
グーデリアンがクッションを枕に厚い毛布にかけ、タブレット電話をいじりながら寝転がっていると、不意に頭上から声がした。
そちらに目をやると、バスロープ姿の若い男。茶色い洗い髪から覗く緑色の目がこちらを見ていた。
「・・えと・・どちらさま?」
「何を言ってるんだ?」
低い声と、眉をひそめるその仕草はあまりにもよく知ったもので。
「って・・お前、ハイネル?!」
「もう寝ぼけているのか?携帯電話で遊んでないで、さっさと寝ろ。」
肩をすくめると、ハイネルはリビングの電気を消して出て行ってしまった。
グーデリアンはさっき見た光景が目に焼き付いてしまい、暗闇の中でしばらく固まっていた。
『あれが素顔?意外に若い・・ってか、可愛い・・・いや、どうしたの俺?いくらドイツだからってそこまで不自由してないだろ?!』
厚い毛布に潜りながら、自分のホームシックの深さについて悶々と悩むジャッキー・グーデリアンであった。
そして結局は空いた部屋に自分用のベッドを手配してしまい、なし崩しの同居が始まるまであと一カ月。
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最後20行が書きたかっただけ。
寂しがりすぎと、面倒見よすぎの泥沼カップル成立までの第一歩。
ある年、秋口のフランスGPに珍しく早入りしたハイネルは、チームはまだ仕事をしている時間なのにこれまた珍しく2時間ほど私用で外出すると言いだした。
「外出の後はホテルで仕事をしているから、何かあったら携帯に連絡してくれ。」
ついでに、こいつは邪魔だから連れて行くぞとグーデリアンをお供に従えて。
サーキットを抜け出して行った先は、ホテルから歩いて行ける距離のフランス料理のビストロだった。
人目を避けてカーテンで区切られたスペースの中で、ソムリエに適当に選ばせた地物の赤ワインを片手にハイネルはご満悦だった。
魚の料理はとらず、前菜からひたすらジビエを食べ続けている。鹿の煮込み、猪のグリル、うずらのロースト・・中でもうさぎのパテはいたく気にいったようで、夜食にでもする予定なのかギャルソンにサンドイッチにできないか尋ねている。
続いて今度は白も欲しくなったのか、再びソムリエを呼び、こういう味のものはないかと相談を始める。
女の子ウケする銘柄ばかりは詳しいグーデリアンに比べ、ハイネルは意外にもワインの名前をほとんど覚えることがない。
『そんなものはソムリエにまかせておけばいい。気に入らなければもう一本持ってこさせればいい。保存条件の悪い銘柄品よりは、専門家がすすめるもののほうがいくらかはマシだろう。』
つまり、頭の中をそんなもので埋める余裕はないということらしい。今度もきちんと自分の望み通りのものが出てきたのか、グラスを変えて一人うなずいていた。
「なんでわざわざこんなちまちました肉食うの?豚とか牛とか食べときゃいいじゃない。」
「人のおごりで文句を言うな。秋はジビエだろう。」
白い指先が汚れるのもいとわず、細い骨のあるローストから優雅に肉をかじりはがしながらハイネルは答える。
「あー・・ヨーロッパ人めんどくせぇ・・。俺がピーター・ルーガー連れてった時はそんなに喜ばなかったくせに・・」
「じゃあ、次はランドルと来よう。」
「・・やめてくれ。あの坊ちゃんと気が合うのはわかるけど。」
お前ら二人してさらっと一線超えそうだもんな、と付け加えようとして、グーデリアンは肉と一緒に飲みこんだ。
-ようするに、ジビエ食べたさに一日早入りまでして、あれこれも食べたいから俺が片づけ係ってわけね。
ジビエに合わせた渋めのワインをちびちびなめながら、グーデリアンはすべてを理解した。
「ん?」
ハイネルがテーブルに置いた携帯電話が光っているのに気がついた。
流行のタブレット型ではなくて、最近珍しい電話とメール機能のみのあっさりした薄手の携帯電話。
毎日充電するのが面倒なのと、そこまでしてネットの世界につながっていたくないという理由らしい。
しかしシュティールを塗装するついでに塗らせた銀と緑色の端末は、ハイネルの白く長い指によく似合っているとグーデリアンはいつも思う。
「失礼。」
一応は一言謝ってからメールを確認し、返信を打とうかとちょっと考え、思い直して電話をかける。相手はチームの誰かだろう。すばやく指示を出し、ねぎらいの言葉をかけて通話を切る。
だが、食事を再開してすぐにまた携帯電話が光る。今度は点滅が違う。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
光り続ける携帯電話を開けて確認し、ハイネルはぷっつりと電源を切るとジャケットのポケットにつっこんでしまった。
それからほどなくして、今度はグーデリアンの携帯電話が震えだした。
ポケットに入れておいたのをとりだすと、画面にまさかのシュトロブラムス社長の文字。
口に入ったままのワインをあわてて飲み干すと、グーデリアンはほぼ反射的に通話のボタンを押した。
「ジャッキー・グーデリアン・・君の前に、フランツがいやしないかね。」
「んな?」
通話がつながると同時に、地を這うような低い声が響く。
「・・伝えろ。せっかくお膳立てをしてやったのに、先方からまた断りの連絡が入ったぞ。アオイの件といい、お前はどうしてそうなんだと!以上!」
いつもの人を食ったような甘い声が嘘のような迫力で通話は切れた。
唖然と携帯電話とハイネルを交互に見つめるグーデリアンに、ハイネルは肩をすくめてみせた。
「父からだろう。」
「お前、知っててとらなかったな・・・・」
「さぁ?」
「最近よく見た、あのブルネットの可愛い子、見合い相手だったんだ?。」
「あぁ。断られたんだろう。最近先方から連絡がなかったから、放置していた。」
自分がふられたという状況なのに、バゲットで鴨のソースを拭き取って優雅に口に投げ入れるその様はまったく堪えていない様子で。
グーデリアンは、そりゃ各自の事情に立ち入らないは暗黙の了解だけれど、一応恋人という立場の自分になんの相談もなしにとか色々と言いたいことはあるはずなのだが、それよりも色事師的立ち位置からのツッコミを押さえることはできなかった。
「お前・・何したの・・」
「何も。」
「最後に会った時、何があったか言ってみな?」
「あー・・・差し入れで、手作りだというクッキーとサンドイッチをもらったかな。クッキーはこねすぎてグルテンが出過ぎていたし、サンドイッチのバターは温度を戻さず塗ったのだろうな、こってりと塗り過ぎていた。」
「・・まさかそれ、本人に言った?」
「言った。感想を正直に言ってくれというものだから。」
グーデリアンは頭を抱えた。
そこはそういう意味じゃない、そもそも質問じゃないだろう!と言いたいのだが、ハイネルに説明するだけの語彙力がない自分が恨めしい。こんなことならカレッジ行っとくんだったか?心理学の学位とっとけよと数年前の自分に説教したくなる。
そんな様子を気にも留めず、ハイネルは再びギャルソンを呼び、グーデリアンもいることだし、何かデザートをとメニューを持ってこさせる。
「それでも私が、どう作っているかわからない素人の手料理を食べているだけで進歩だと思わないか?」
「・・お前が色恋を覚えるまでに人類が滅びそうだよ。」
来るもの拒まず、去る者追わず。
こんなハイネルと仕事をする女性スタッフたちはさぞや大変かと思うが、むしろこのドライで性別で態度を使い分けない上司は仕事がしやすいらしい。
しかしビジネスならともかく、こいつは恋人ですら自分よりメリットがある相手がいればあっさり乗り換えてしまう気がする。それが男でも女でも。
-俺もしかして、世界で一番やっかいな相手に手を出してしまったんじゃなかろうか。
見た目にそぐわずデザート前にまだ嬉しそうにがっつりと肉をほおばっている恋人に、グーデリアンはワインとともにため息を飲みこんだ。渋さが胃の腑まで染みる気がした。
-----
いつも何か食べてるなぁ
がんばれ色事師。
「外出の後はホテルで仕事をしているから、何かあったら携帯に連絡してくれ。」
ついでに、こいつは邪魔だから連れて行くぞとグーデリアンをお供に従えて。
サーキットを抜け出して行った先は、ホテルから歩いて行ける距離のフランス料理のビストロだった。
人目を避けてカーテンで区切られたスペースの中で、ソムリエに適当に選ばせた地物の赤ワインを片手にハイネルはご満悦だった。
魚の料理はとらず、前菜からひたすらジビエを食べ続けている。鹿の煮込み、猪のグリル、うずらのロースト・・中でもうさぎのパテはいたく気にいったようで、夜食にでもする予定なのかギャルソンにサンドイッチにできないか尋ねている。
続いて今度は白も欲しくなったのか、再びソムリエを呼び、こういう味のものはないかと相談を始める。
女の子ウケする銘柄ばかりは詳しいグーデリアンに比べ、ハイネルは意外にもワインの名前をほとんど覚えることがない。
『そんなものはソムリエにまかせておけばいい。気に入らなければもう一本持ってこさせればいい。保存条件の悪い銘柄品よりは、専門家がすすめるもののほうがいくらかはマシだろう。』
つまり、頭の中をそんなもので埋める余裕はないということらしい。今度もきちんと自分の望み通りのものが出てきたのか、グラスを変えて一人うなずいていた。
「なんでわざわざこんなちまちました肉食うの?豚とか牛とか食べときゃいいじゃない。」
「人のおごりで文句を言うな。秋はジビエだろう。」
白い指先が汚れるのもいとわず、細い骨のあるローストから優雅に肉をかじりはがしながらハイネルは答える。
「あー・・ヨーロッパ人めんどくせぇ・・。俺がピーター・ルーガー連れてった時はそんなに喜ばなかったくせに・・」
「じゃあ、次はランドルと来よう。」
「・・やめてくれ。あの坊ちゃんと気が合うのはわかるけど。」
お前ら二人してさらっと一線超えそうだもんな、と付け加えようとして、グーデリアンは肉と一緒に飲みこんだ。
-ようするに、ジビエ食べたさに一日早入りまでして、あれこれも食べたいから俺が片づけ係ってわけね。
ジビエに合わせた渋めのワインをちびちびなめながら、グーデリアンはすべてを理解した。
「ん?」
ハイネルがテーブルに置いた携帯電話が光っているのに気がついた。
流行のタブレット型ではなくて、最近珍しい電話とメール機能のみのあっさりした薄手の携帯電話。
毎日充電するのが面倒なのと、そこまでしてネットの世界につながっていたくないという理由らしい。
しかしシュティールを塗装するついでに塗らせた銀と緑色の端末は、ハイネルの白く長い指によく似合っているとグーデリアンはいつも思う。
「失礼。」
一応は一言謝ってからメールを確認し、返信を打とうかとちょっと考え、思い直して電話をかける。相手はチームの誰かだろう。すばやく指示を出し、ねぎらいの言葉をかけて通話を切る。
だが、食事を再開してすぐにまた携帯電話が光る。今度は点滅が違う。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
光り続ける携帯電話を開けて確認し、ハイネルはぷっつりと電源を切るとジャケットのポケットにつっこんでしまった。
それからほどなくして、今度はグーデリアンの携帯電話が震えだした。
ポケットに入れておいたのをとりだすと、画面にまさかのシュトロブラムス社長の文字。
口に入ったままのワインをあわてて飲み干すと、グーデリアンはほぼ反射的に通話のボタンを押した。
「ジャッキー・グーデリアン・・君の前に、フランツがいやしないかね。」
「んな?」
通話がつながると同時に、地を這うような低い声が響く。
「・・伝えろ。せっかくお膳立てをしてやったのに、先方からまた断りの連絡が入ったぞ。アオイの件といい、お前はどうしてそうなんだと!以上!」
いつもの人を食ったような甘い声が嘘のような迫力で通話は切れた。
唖然と携帯電話とハイネルを交互に見つめるグーデリアンに、ハイネルは肩をすくめてみせた。
「父からだろう。」
「お前、知っててとらなかったな・・・・」
「さぁ?」
「最近よく見た、あのブルネットの可愛い子、見合い相手だったんだ?。」
「あぁ。断られたんだろう。最近先方から連絡がなかったから、放置していた。」
自分がふられたという状況なのに、バゲットで鴨のソースを拭き取って優雅に口に投げ入れるその様はまったく堪えていない様子で。
グーデリアンは、そりゃ各自の事情に立ち入らないは暗黙の了解だけれど、一応恋人という立場の自分になんの相談もなしにとか色々と言いたいことはあるはずなのだが、それよりも色事師的立ち位置からのツッコミを押さえることはできなかった。
「お前・・何したの・・」
「何も。」
「最後に会った時、何があったか言ってみな?」
「あー・・・差し入れで、手作りだというクッキーとサンドイッチをもらったかな。クッキーはこねすぎてグルテンが出過ぎていたし、サンドイッチのバターは温度を戻さず塗ったのだろうな、こってりと塗り過ぎていた。」
「・・まさかそれ、本人に言った?」
「言った。感想を正直に言ってくれというものだから。」
グーデリアンは頭を抱えた。
そこはそういう意味じゃない、そもそも質問じゃないだろう!と言いたいのだが、ハイネルに説明するだけの語彙力がない自分が恨めしい。こんなことならカレッジ行っとくんだったか?心理学の学位とっとけよと数年前の自分に説教したくなる。
そんな様子を気にも留めず、ハイネルは再びギャルソンを呼び、グーデリアンもいることだし、何かデザートをとメニューを持ってこさせる。
「それでも私が、どう作っているかわからない素人の手料理を食べているだけで進歩だと思わないか?」
「・・お前が色恋を覚えるまでに人類が滅びそうだよ。」
来るもの拒まず、去る者追わず。
こんなハイネルと仕事をする女性スタッフたちはさぞや大変かと思うが、むしろこのドライで性別で態度を使い分けない上司は仕事がしやすいらしい。
しかしビジネスならともかく、こいつは恋人ですら自分よりメリットがある相手がいればあっさり乗り換えてしまう気がする。それが男でも女でも。
-俺もしかして、世界で一番やっかいな相手に手を出してしまったんじゃなかろうか。
見た目にそぐわずデザート前にまだ嬉しそうにがっつりと肉をほおばっている恋人に、グーデリアンはワインとともにため息を飲みこんだ。渋さが胃の腑まで染みる気がした。
-----
いつも何か食べてるなぁ
がんばれ色事師。
「なんでお前がここにいるんだよ。」
休日のシュツットガルトのハイネル家別邸、応接室。
テーブルの上にはハイネルにしては珍しい、豪華な花柄のコーヒーセット。
そして、ハイネルの向かいにはこれまた珍しく、コーヒーを嗜むランドル家次期当主が座っていた。
「それは僕のセリフだ。まだ捨てられてなかったのか。アメリカの駄犬。」
「あぁん?」
「どっちもよさんか。こいつは放っておくと何をしでかすかわからないから、手の届くところで見張っておくほうが楽なんだ。」
今にも小競り合いを始めそうな二人をめんどくさそうに諌め、ハイネルは硝子のカバーを外し、チョコレートの色も艶やかなケーキを一切れ切り取った。
金ライン入りのカップにコーヒーとミルクを注ぎ、ケーキの皿とともにグーデリアンに手渡す。
空いたソファにどかりを腰をおろしてケーキをほおばれば、市販のものよりは甘さが前面に出てこず、しっとりとした香りと風味が広がった。
「まだ機嫌が悪そうだな。せっかく君好みのザッハトルテを作らせてきたというのに。」
「あたりまえだろう。新車開発の合間に人が死ぬ思いで作ってやったマシンを、紅茶が飲めないだと?ケーキ一つで収まると思ったら大間違いだ。」
だからランドルが来ているのにわざわざコーヒーなのかと、グーデリアンは心の中で密かに噴き出した。
「ほう、じゃあ君が好きそうな古いドゥカティのカフェレーサーも持ってきているんだけど、持ち帰ろうかな。」
「・・・・いや、見る。」
ハイネルの片眉がぴくりと動く。
後はベベルがどうとかイモラがこうとか、ついでにあそこの経営者がどうなったとか謎の単語がグーデリアンの前を行きかうだけ。
ミルクを入れてなお苦いコーヒーをすするように飲みこみ、グーデリアンは顔をしかめた。
ドイツに来てみて、グーデリアンは「ハイネルの家にランドルが来る」という意外な状況に驚いた。
さすがにファクトリー近くの隠れ家アパートメントに現れたことはないが、きちんとした設備のある別宅のほうではハイネルの手料理を食べていくことすらあった。
ハイネル自身は歳の離れた弟気分で別にどうというつもりはないのだろうが、興味のない人間には表面だけでうまく受け流しておくハイネルが髪も上げない姿でランドルと心底楽しそうに話しているのを見るたびに、グーデリアンの心中は穏やかではなかった。
特に、エンジン関係にやたらと恋多きハイネルの長年の趣味であるバイク分野においては、サイバーバイカーズの経験のあるランドルに勝てる要素が見つからない。
(そもそも、ランドルがバイクを始めたのはハイネルの影響があったからじゃないかという疑惑も持たれるのだが)
自身のバイク乗りの経験を取り込んだのがつまりはローリングコクピットのポジションで、腕だけでなく、全身を使って操作する感覚がないと乗りこなせない。
グーデリアンとて二輪に乗らないわけではないが、馬の乗り方に違いがあるように、アメリカの大地を大排気量のバイクでひたすら直進するスタイルと、ワインディングを滑るように攻めるヨーロッパの乗り方は全く目指すものが違う。
一度、俺荷物積んでアメリカ横断とかしたいんだよねと口を挟んでみたら、二人して「わけがわからない」と即時に全否定された。
「と、少しのつもりが長居をしてしまった。そろそろ帰らなくては。」
「あぁ。じゃまた。」
「仕事が落ち着いたら、北欧へツーリングに行こう。」
「いいな。」
そして適当な時間がくれば決してべたべたするわけでもなく、しかしきちんと次の約束をして別れる。
その距離感が微妙に悔しくて。
「絶対お前になんかやらねぇからな・・・」
エントランスから走り去るランドルのリムジンにグーデリアンは指でばん、とピストルを撃つ真似をした。
休日のシュツットガルトのハイネル家別邸、応接室。
テーブルの上にはハイネルにしては珍しい、豪華な花柄のコーヒーセット。
そして、ハイネルの向かいにはこれまた珍しく、コーヒーを嗜むランドル家次期当主が座っていた。
「それは僕のセリフだ。まだ捨てられてなかったのか。アメリカの駄犬。」
「あぁん?」
「どっちもよさんか。こいつは放っておくと何をしでかすかわからないから、手の届くところで見張っておくほうが楽なんだ。」
今にも小競り合いを始めそうな二人をめんどくさそうに諌め、ハイネルは硝子のカバーを外し、チョコレートの色も艶やかなケーキを一切れ切り取った。
金ライン入りのカップにコーヒーとミルクを注ぎ、ケーキの皿とともにグーデリアンに手渡す。
空いたソファにどかりを腰をおろしてケーキをほおばれば、市販のものよりは甘さが前面に出てこず、しっとりとした香りと風味が広がった。
「まだ機嫌が悪そうだな。せっかく君好みのザッハトルテを作らせてきたというのに。」
「あたりまえだろう。新車開発の合間に人が死ぬ思いで作ってやったマシンを、紅茶が飲めないだと?ケーキ一つで収まると思ったら大間違いだ。」
だからランドルが来ているのにわざわざコーヒーなのかと、グーデリアンは心の中で密かに噴き出した。
「ほう、じゃあ君が好きそうな古いドゥカティのカフェレーサーも持ってきているんだけど、持ち帰ろうかな。」
「・・・・いや、見る。」
ハイネルの片眉がぴくりと動く。
後はベベルがどうとかイモラがこうとか、ついでにあそこの経営者がどうなったとか謎の単語がグーデリアンの前を行きかうだけ。
ミルクを入れてなお苦いコーヒーをすするように飲みこみ、グーデリアンは顔をしかめた。
ドイツに来てみて、グーデリアンは「ハイネルの家にランドルが来る」という意外な状況に驚いた。
さすがにファクトリー近くの隠れ家アパートメントに現れたことはないが、きちんとした設備のある別宅のほうではハイネルの手料理を食べていくことすらあった。
ハイネル自身は歳の離れた弟気分で別にどうというつもりはないのだろうが、興味のない人間には表面だけでうまく受け流しておくハイネルが髪も上げない姿でランドルと心底楽しそうに話しているのを見るたびに、グーデリアンの心中は穏やかではなかった。
特に、エンジン関係にやたらと恋多きハイネルの長年の趣味であるバイク分野においては、サイバーバイカーズの経験のあるランドルに勝てる要素が見つからない。
(そもそも、ランドルがバイクを始めたのはハイネルの影響があったからじゃないかという疑惑も持たれるのだが)
自身のバイク乗りの経験を取り込んだのがつまりはローリングコクピットのポジションで、腕だけでなく、全身を使って操作する感覚がないと乗りこなせない。
グーデリアンとて二輪に乗らないわけではないが、馬の乗り方に違いがあるように、アメリカの大地を大排気量のバイクでひたすら直進するスタイルと、ワインディングを滑るように攻めるヨーロッパの乗り方は全く目指すものが違う。
一度、俺荷物積んでアメリカ横断とかしたいんだよねと口を挟んでみたら、二人して「わけがわからない」と即時に全否定された。
「と、少しのつもりが長居をしてしまった。そろそろ帰らなくては。」
「あぁ。じゃまた。」
「仕事が落ち着いたら、北欧へツーリングに行こう。」
「いいな。」
そして適当な時間がくれば決してべたべたするわけでもなく、しかしきちんと次の約束をして別れる。
その距離感が微妙に悔しくて。
「絶対お前になんかやらねぇからな・・・」
エントランスから走り去るランドルのリムジンにグーデリアンは指でばん、とピストルを撃つ真似をした。
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ここはいわゆる同人誌といわれるものを扱っているファンサイトです。
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